支出を0円にするとはどういうことだろうかと思って「0円で生きる」を読んでみました。
結論として管理人に0円で生きることはできないのですが、余剰なものをお互いGiveできる社会になったら幸せに使づけそうだと思い至りました。
普段はFIREに向けて世知辛いお金の計算ばかりやっていますが、たまには哲学めいたものを記事にしてみます。
「0円で生きる」を読んだきっかけ
管理人は手取りの8割を貯蓄に回しているため、貯める力が大分バグった類の人種と自認しています。
しかし上には上がいて、現代日本の東京暮らしにおいて年収90万円でハッピーに暮らしている方がいます。
その著書『なるべく働きたくない人のためのお金の話』を読んで以前記事を書いています。
この本の最後に対談が載っていたのですが、その対談相手の方が「生きていくために何かを得るためにお金を支払う以外の方法もあるよね」という趣旨のこと言われていたのが面白かったです。
そこで対談相手の方の著書「0円で生きる」を読んだので、本記事ではその感想をまとめました。
お金のない時代の人類は0円で生きていた
人類は誕生のときからお金を生みだしたわけではありません。
お金の誕生前は物々交換して人類は生きていたというのが常識となっています。
しかし、お互いが欲しいものをたまたま持っていて交換できることは稀なはずです。
その場で交換するのではなく、「貸し」にしておいていずれ返してもらう「つけ払い」を基本としていたと考える方が説得力があると書かれていました。
余ったものがあれば他人にあげて、その代わり他の人が余ったときにはそのものを分けてもらうことを期待するという、共同体での相互の「Give」が生きていくために必要不可欠だったのではないかと思います。
昔からの意味での「情けは人のためならず」がピッタリくる状態です。
生きていくために自然と「ノーペイン・ノーゲイン」になっていたとも捉えられます。
村社会は幸せか?
村社会では、協力してお互いの田植えを手伝ったり、公共事業では補えない部分を村人全員で行ったりと、0円人類の名残りがみられます。
村の助け合いの仕組みは一見素晴らしいだけに見えるかもしれませんが、それはフェアではないということで著者はマイナス面についても書かれています。
共同体での相互のGiveと表現しましたが、そこに「テイカー」が発生すると共同体が全滅しかねません。
そのためテイカー狩りのために様々な掟が設定されますが、それが生き辛さを生みだすこともあります。
助け合うことが義務となり、従わない者は村八分にされるという制裁があったりします。
著者は下記のようにも言っています。
人づきあいが大変になってしまう人、特に気を遣いすぎる人は、無理してまでそれをやる必要はない。
ただでさえ学校や職場の人間関係が濃すぎる社会なのだから。
自分が生きやすくなることを何より優先すべきだ。
村社会はかかるお金は少なかったとしても、学校や会社で味わう息苦しさが私生活にまで蔓延した状況と思うと、管理人としてはサラリーマンをしていた方がマシと思えます。
現代資本主義社会はどうなっているのか
やって欲しいことにはお金を払い、煩わしい人間関係を減らす現代資本主義は、なかなか合理的なシステムだとは思います。
著者は以下のように書かれています。
50年代のアメリカではすでに耐久消費財の市場は飽和状態を迎えていた。
つまり必要なものは大方の人に行き渡っていた。
そこで売る側が考えた戦略のひとつは、元々家庭などで共有されていたものを、一人に一つ以上持たせることだった。
例えばこんなことです
- シチュエーションに応じて使い分けるために複数のメガネを持つ
- 1家族で複数台の車を持つ
- 別荘を持つ
資本主義経済は無理にでも成長を続けるために消費者に不要なものをじゃんじゃん売りつけてきますが、結構なものがなくても生活満足度が変わらないと気付いたときがミニマリストのスタート https://t.co/Nf26XKth00
— みかかFIRE@2023年FIRE目標 (@MikakaFIRE) March 18, 2021
現代社会で相互のGiveというとお歳暮や義理チョコが思い当たるかもしれませんが、面倒なだけの贈答習慣であるのでこれらは違うと考えます。
特にあげたいと思わないけれど習慣なのでわざわざ買って送り、欲しくない物をもらったが習慣なので何かお返しをする。
これは物を売りたいだけの企業の罠に社会全体でかかっている状況と捉えられます。
あげたりもらったりがもっと盛んな社会になると幸せに近づきそうですが、このような古い習慣のマイナス面は継承せず、今風の贈り物文化が醸成される必要があるのが難しい点です。
少ないお金で幸せに暮らす道はないのか
お金を沢山稼げることだけが幸せという社会では、お金のために働くこと(特に会社に勤めること)が苦手な人にとっては、はなから幸せになれる選択肢がないという残念なことになります。
村社会では人間関係もルールも濃すぎるというのは自由がなくなりさらに幸せから遠ざかる感がありましたが、相互にGiveしあうのが当たり前の社会になればお金が少なくても幸せを感じやすくなると考えます。
アメリカの大富豪が死ぬまでに使い切れない巨額の資金を寄付したりしているのはこれに近いのかもしれませんが、一方的な付与となっているため、例えお金ではなくても相互にGiveしあえることが全体の幸せに繋がるのではないかと思います。
むしろお金ではないものを相互にGiveすることがキーファクターかもしれません。
資本主義経済はお金に捕らわれがちなため、
- 「お金はいくらでも増やしたい」
- 「他人に無償で提供するなんてまっぴらごめんだ」
- 「大金持ちからは金を没収しろ」
とギスギスした発想になってしまいます。
人類の生産性は高まり物に溢れている世界なのに、何か不幸に感じます。
リベラルアーツ大学で両学長が5つの力の中で「使う力」の解説をされていていまいちピンときていなかったのですが、もしかして相互にGiveしあえる社会を目指そうってことなのか!?と少し理解に近付いたかもしれません。
FIREしてお金の呪縛から解き放たれ、社会に対して優しい考えを持てるようになれたらいいなと思います。
おまけ:0円で得られる物
図書館に行けば無料で本を借りられますし、YouTubeは無料でエンタメや教養を楽しめます。
現代日本は0円でもハッピーに時間を過ごしやすくなっていると感じます。
本書の中でも0円で得られる物が紹介されていました。
著者は、0円でも企業が広告のためにやっているものは、利用者の使った時間は企業に価値提供しているので除外されていましたけど。
著作権切れの本などが閲覧できる「青空文庫」というサイトが紹介されていて面白そうだったため、本記事でもご紹介します。
人間の本質的な悩みは大昔から変わっていないため、昔の本だから価値が薄いということにはなりません。
むしろ昔からの名著には多くの人が参考にすべきと思った実績があるので、価値が高いと思います。
図書館まで行けば本は借りられますが、出かけるのは面倒とか図書館には置いていないとかいうときにはこちらのサイトを使ってみようと考えています。
まとめ:相互にGiveする社会になれたら幸せ
支出を0円にするとはどういうことだろうかと思って「0円で生きる」を読み始めたのですが、考えているうちに大分哲学めいた結論に行きつきました。
現代資本主義社会においてお金を捨て去ることはできないでしょうが、余剰なものをお互いGiveできる社会になったら人類は今の閉塞感から逃れて、幸せに近づけるのではないかと思います。
普段はFIREに向けて世知辛いお金の計算ばかりやっていますが、たまにはこのようなことを考えてみるのも面白いものでした。


